ROBERTO FIA「続荒野の用心棒 DJANGO」

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#541 1966年のEP盤。
 
 マカロニ・ウエスタン映画「続荒野の用心棒」からのサウンドトラック盤だ。
 マカロニ・ウエスタンというのはこの頃量産されたイタリア製の西部劇で、派手な銃撃戦と残酷な描写が斬新だった。
 確か、急所を外して何発か撃ち込み「金の弾だから金になるぞ」と町人達をそそのかして、瀕死の相手の身体から寄ってたかって銃弾をえぐり出させるといった殺し方もあったはずだ。
 イタリア人が西部劇を作るというのはどういうことなのかさっぱりわからないが、いっときもてはやされたのはまちがいなく、先駆けとなったのは1964年の「荒野の用心棒」で、黒澤明の「用心棒」をパクったものながらクリント・イーストウッドが主演している。
 「続荒野の用心棒」はタイトルこそ「続」にはなっているが、前作とは何の脈絡もなかったし主演もフランコ・ネロに変わっているから、実は日本の配給会社が勝手につけた題名だろう。
 棺桶を引きずって登場した主人公が棺桶の中からガトリングガンを取り出して敵を皆殺しにするシーンや、両手を潰された主人公が口を使って拳銃の引き金のカバーを外し、墓標の鉄製の飾りを利用して銃を発射するするシーンが印象的だった。
 あと思い出すのは、副題(とは言っても日本だけの話だが)が「DJANGO」で、スペルの最初にDが入るところがカッコ良かったこと。
 作曲はエンニオ・モリコーネ。言わずと知れたイタリア音楽映画の巨匠で、今でも健在らしい。
 
 恥ずかしながらジャンゴ・ラインハルトの名前を知ったのはつい最近のことだ。

THE BEACH BOYS 「GOOD VIBRATIONS」

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#540 1967年のEP盤。

 グループ名からしてすでに夏の海の青春みたいなバンドで、サーフィン・ドライブ・ダンスパーティーといったイメージの、明るく能動的な曲で一世を風靡した。
 60年代前半からの「SURFIN' USA」をはじめとする数々のヒット曲は、インストゥルメンタルバンド的なサウンドにきれいな裏声と鮮やかなコーラスを乗せ、ロックンロール的なスピード感もあって爽快であり、たとえて言えば発売当初のコカ・コーラみたいにカッコ良かった。
 元来夏の海というのは若さの発散の場で、熱い砂の上を走って水に飛び込むとかスタイルの良い女の子の水着姿を眺めるとか気持ち良いことばかりの上に、むずかしいことなんかなーんも考えずに歌って踊って波乗りしようよ!という姿勢がそりゃあ楽しそうで、まあ若者にウケる条件は揃っていたわけだ。
 だけどそんなに脳天気で良いんだろうかと、ビートルズやストーンズなんかを聴き始めていた私にはちょっと抵抗のあるバンドでもあり、それまでレコードは持っていなかった。
 ところがある時ラジオから流れてきたこの曲はそれまでのビーチ・ボーイズの曲とは違った複雑な構成で、夏の海の青春の面影はあるものの何だかそれだけではない感覚が耳に残り、一度聴いたらまた聴きたくなる不思議な魅力があった。
 どうやらこの頃からリーダー格のブライアン・ウィルソンという人の音楽性が大きく変化し始めたらしく、同時期に発売されたLPは難解すぎて当時は一部の人にしか評価されなかったという。
 実際、B面の「LET'S GO AWAY FOR A WHILE」はインストゥルメンタルというか伴奏だけで終わってしまう短い曲で、今で言えばカラオケのような感じで、綺麗な曲だが「なんじゃこりゃ」な印象の方が強い。
 そんなこともあってバンド内に色々な問題も発生したらしいがまあそれはそれ、とにかく私としてはこれがビーチ・ボーイズの最高作だと思う。
 
 88年にトム・クルーズ主演の映画に使われた「KOKOMO」という曲が2番目に良いと思うのだが、実はこのバンドのオリジナルではないらしい。

無何有

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 誕生日に子供達から贈られた3本のうちの最後の1本で、前回の人夢可酒に続いてむずかしい名前の酒。
 ちなみに2本目は以前に書いた「百年の孤独」だ。
 この酒は「むかう」と読む。
 無何有とは荘子の言葉で、「何か有らむ」と読むのだそうだ。
 多分深い意味があるのだろうが、「むかう」という音の響きがあまり良くないので、その意味も別に知りたいとは思わなかった。
 桐の箱に収まっていて、いかにも高そうだ。
 箱の中には説明書というか能書きというか「弊社屋久島伝承蔵において手造り・甕壷仕込みという古式製法により醸した芋焼酎を大忠岳山麓にある隧道の中でじっくりと甕壷貯蔵し、そのまま瓶詰めした芋焼酎原酒の逸品です。」という紙も入っている。
 更には「西暦2011年限定蔵出し2433本中1724番」というナンバリングもある。
 これはちょっと襟を正してうやうやしく頂かなければならない酒のようだ。
 例によって香りを嗅いでみる。
 私は芋焼酎をあまり飲まないので他と比べることはむずかしいが、さほど香りが濃いとは思われないし、特徴的な香りでもないように思われる。
 次に舌先に載せてみると、かなり固い感じがする。
 これはちょっと硬派な酒かもしれないと思いつつ口の中で遊ばせてみるが、やはり固さは消えず、ゆっくりと喉に通してみると食道から胃にかけて、主張の強いものが降りて行く。
 迂闊に飲むとガクンと酔いが回りそうな気がする。
 酒の世界には男酒・女酒という言葉があるが勿論この酒は男酒で、洋酒で言えばドライということになるのだろう。
 
 悔しいけれど私には辛さが強すぎて、お湯割りにしたらもう少し飲みやすくなるのかもしれないと思ってしまった。

HOUND DOG 「WELL COME TO THE ROCK'N ROLL SHOW」

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#539 1980年のレコード。
 
 前回聴いた#538 ELVIS PRESLEY 「HOUND DOG」で思い出したLPレコード。
 実は持っていたことすら忘れていた。
 バンド名はもちろんプレスリーの曲からネーミングされたものだ。
 キャロルの登場以降しばらく続いたロックンロール・リバイバルブームの、多分最後期のバンドではなかったろうか。
 同時期には横浜銀蝿というアクの強いロックンロール・バンドがいたが、銀蝿が不良高校生っぽい汗と埃と精液の臭いを振りまいていたのに対して、このバンドはひと味違っていた。
 たとえば大友康平が楽器を弾かずにボーカル専門だったというのもそうだし、曲作りにしても50年代の言わばオールドスタイルのロックンロールだけではなく、自分たちなりのロックンロールを目指していたと思う。
 キャロルを初めとするロックンロール・バンドというのは、東京・川崎・横浜といった京浜地区のブルーカラーもしくはブルーカラー候補の突っ張った若者達がやっているというイメージがあったのだが、このバンドは東北出身者で構成されており、もしかしたらそれが音楽性の違いだったのかもしれない。
 リーゼントヘアは一人もいないし「喧嘩上等!」的な攻撃性も反抗的な要素もあまり感じられず、そんなことよりみんなでロックンロールを楽しもうぜというスタンスだ。
 その分他のバンドと比べるとスピード感では劣るものの、大友康平のシャウト唱法はなかなかダイナミックで、これだけ声が出せるボーカルは今でも珍しいんじゃないだろうか。
 デビューヒットのA面5曲目「嵐の金曜日」などはバラード風でありながら迫力があるし、最後の「だから大好きロックンロール」という曲もロックンロールに対する熱い思いが表れていてすがすがしい。
 それでこのバンドには少し期待していた記憶があるのだが、ロックンロールからロックの方に、徐々に方針変更していったのは残念だった。
 その大友康平も、最近テレビで見たら、年齢が顔に出るタイプの初老になっていた。
 
 30年ぶりくらいに聴いたが、B面2曲目「ダンスはスンダ」が意外にイイことに気がついた。

ELVIS PRESLEY 「HOUND DOG」

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#538 1956年のEP盤。
 
 多分兄が買ったレコードだと思う。
 だとしても1956年なら兄も小学校の1年生くらいだったはずで、とてもリアルタイムでこのレコードを聴いていたとは思えない。
 だいいち、まだ一般家庭にはレコードプレーヤーなどというものはそうそうありはしなかった。
 おぼろな記憶なので年代が違っているかもしれないが、昔はまだ蓄音機といって(テイチクは1953年まで「帝国蓄音機」という会社だった)、スピーカーがついていたかどうか忘れたが鉄の針を使った手回し式の再生装置が当たり前だったような気がする。
 50年代半ばというのはそれが電気式蓄音機(電蓄)に代わって間もない頃ではなかったか。
 というわけで当時中古レコード店などというものはもちろん存在していなかっただろうから、兄がそれなりの年齢になったときにもまだレコード店で新品として売られていたか、あるいは後年再発売された物を買ったのかもしれない。
 ジャケットの解説には「最近のツイスト・ブームでリヴァイバルしている」と書いてある。
 
 それはそれとして、ご存じエルビス・プレスリーである。
 ウッドベースとドラム、ギターはエレキというより電気ギターといった風で、アコースティックギターにマイクを仕込んだような代物が使われている。
 ロックという言葉はまだ存在せず、この手の音楽はロックンロールまたはロカビリーと呼ばれることが多かったはずだ。
 そのロックンロールまたはロカビリーのカリスマであり、この人が巻き起こしたセンセーションは後にビートルズが登場した時のそれ以上だったろうと思われる人で、例によって大人からは非難囂々、腰の動きが卑猥であるという理由でテレビでは胸から上しか写されなかったという話もある。
 歴史上には音楽やらファッションやら文化やらがはじける瞬間というものがあると私は思っていて、ロックンロールとブルースとR&Bは短い期間に立て続けにはじけた音楽の花火のようなものではないかという気がする。
 
 この人は、その後多くのミュージシャンに影響を与えており、今もなお信奉者が多いのは周知のとおりだ。

いしだあゆみ 「サチオ君」

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#538 1965年の4曲入りコンパクト盤。
 
 昭和23年という団塊世代ど真ん中に生まれたこの人は、この時17歳。
 フィギュアスケートでオリンピックを目指していたとかなのだが、スカウトされて64年にB面2曲目の「ネエ聞いてよママ」でデビューした。
 私としては、歌よりもテレビドラマ「7人の孫」なんかで見られる可愛らしさが好きだった記憶がある。
 現代的で奔放で、いわゆる「今どきの若い者」な女の子の役だったと思うが、地ではないかと思えるほど伸び伸びと演じていた。
 「ネエ聞いてよママ」はそのイメージどおりの曲で、なんだか知らないけどいろんな男の子から声かけられっぱなしでワタシ楽しいワと無邪気に歌っている。
 「ネエ聞いてよママ」をアメリカンポップスにたとえると、「サチオ君」は夭折したおさななじみの思い出を切なげに歌うしっとりした曲で、イタリアンポップス的な哀愁がある。
 どちらもまだ世情は明るく無益な情報の嵐に翻弄されることなどなかった頃、少年少女が恋を夢みることを許されていた時代を反映して健やかな曲であり、陳腐な言い方ながら「あの頃は良かった」と思ってしまう。
 
 ふっくらしてボーイッシュな魅力があったこの人も、大人になるにつれて細くなりケバくなっていって、とくにショーケンとの結婚生活に失敗した頃からは心配になるほど痩せてしまい、今では別人のような印象の女性になっている。

バリー・サドラー軍曹 「悲しき戦場」

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#537 1966年のEP盤。
 
 この人は本物のグリーンベレー隊員で、ベトナムで負傷して帰還し、その後この歌を軍隊内で歌っていたらしい。
 それがレコード会社の目に止まり、発売された途端に大ヒットとなり2週間で41万枚売れたという。
 もちろんヒットチャートの1位になったわけだが、年間シングルチャートの1位も獲得している。 
 コード進行というか曲調は多分カントリーだが、バックに行進曲風のスネアドラムや軍歌風のトランペットが入って、軍人も歌えるポップスとしてピタリと決まっている。
 調べてみたら、これを元歌にして世界中のいろんな国の特殊部隊で替え歌が作られ、それぞれの部隊のテーマソング的に歌われることになったようだ。
 ベトナム戦争に対する厭戦・反戦の風潮が高まりつつあった時代の中で、この曲は謂わば右からのアンチテーゼであったと思われ、それがこれほど売れたということは、戦争はノーだが戦死した兵士に対しては弔意を感じていた人が多かったということかもしれない。
 ちなみに、この曲を作詞をしたロビン・ムーアという人は「グリーンベレー」という小説を書き、ジョン・ウェイン主演で映画化されて、その中にもこの曲が使われたそうだ。
 一方この軍曹は、その後この路線の曲をいくつか作ってアルバムを出してヒットさせ、更には兵士を主人公にした小説を書いたりしたそうだが、日本ではこの曲ほどは売れなかったようだ。

SIMON & GARFUNKEL 「THE SOUNDS OF SILENCE」

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#536 1966年のEP盤。
 
 全米ヒットチャートの1位になった1枚。
 この曲はデビュー・アルバムにも入っているそうで、アルバムではアコースティック・ギターだけで歌われているとのことだが、あまり受けなかったらしい。
 曲はきれいなのだが詞は難解で、「何万もの人が、喋らずに話し 聞かずに聴き 声に出されない歌を作っている」とか「人々は彼らが作ったネオンの神に祈っている」とかいう内容だ。 
 それは多分、あの時代にあって物質的な豊かさと精神的な貧しさとのアンバランスを感じ始めた世代の、不安定感とか焦燥感とかのようなものが背景にあって生まれてきたものではないかと思う。
 その曲にエレキのバックをかぶせてシングル発売したところ大ヒットしてしまったのがこのレコードなのだが、まあほとんどフォーク・ロックのようなサウンドになっていて、B面の「We've Got A Groovey Thing Goin'」を聴くと更にその傾向が強く感じられる。
 そのせいで、私も最初はこのグループはフォーク・ロックのグループなのだと思っていた。
 その後このレコードは68年にも再発売されているが、それは多分映画「卒業」のサウンド・トラックに使われたことで改めてヒットしたためだろう。
 再発売盤の方は持っていないが、当時聴いた記憶ではこのレコードよりもバックのドラムやエレキベースが抑え気味に編集されていて、よりアコースティックな作りになっていたような気がする。
 逆に言うとこのレコードの音作りはちょっとガサついた荒っぽい感じになっているわけだが、実は本人達には無断で発売されたもので、怪我の功名というか、そのおかげで「卒業」では全編このグループの曲が使われることになったらしい。

THE BEE GEES 「MASSACHUSETTS」

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#535 1967年のEP盤。

 B面の「ホリデイ」もかなりヒットしたので、両方がA面と言っても良いかも知れない。
 広義ではロックに分類されるとしても、この頃のビージーズはストリングスを上手に使った叙情的な曲作りをしており、ハーモニーは綺麗だしテンポはゆったりしているし、だからどこかに#531 「花のサンフランシスコ」同様に「今の」音楽でありながらも清潔感とロマンチシズムがある。
 そのために、ヒッピームーブメントや反戦運動や攻撃的なロックや薬物の流行が広がる中にあって、そういった風潮とは少し違う方向性を感じさせるバンドだった。
 この曲では、「ヒッチハイクでサンフランシスコにやって来たけど、恋人を残したマサチューセッツに帰るべきなのかもしれない」みたいなことを歌っているようで、深読みすればヒッピー生活に疲れた人の歌ということになるのかもしれない。
 #315 「THE BEE GEES FIRST」でも書いたが、いっときは飛ぶ鳥を落とす勢いがあったが、私に言わせればディスコブームに乗ったことで道を誤り、その後はモーリス・ギブの急逝もあって表舞台からは姿を消していった。
 
 オーストラリア出身とばかり思っていたのだが、調べてみたら生まれはイギリスだそうで、子供の頃家族でオーストラリアに移住したのだそうだ。

THE SUPREMES 「ひとりぼっちのシンフォニー」

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#534 1966年のEP盤。
 
 グループ名に「DIANA ROSS &」がつく前のレコードで、ダイアナ・ロスはこのとき22歳。 ジャケット写真ではセンターではなく右側に写っている。
 センターにいるのは多分フローレンス・バラードで、ダイアナ・ロスよりも歌がうまいとも言われていたようだがレコード会社の方針でメインボーカルをダイアナ・ロスに奪われてしまい、その憤懣のためにアルコール依存症になってグループをクビになってしまった人だ。
 映画「ドリーム・ガールズ」では、失意から這い上がりアル中を克服し地道に歌を歌い続けて、やがて「ドリームズ」の解散コンサートのステージでは恩讐を越えて元の仲間と一緒に歌うということになっているが、実際には解雇された後数枚のレコードを出したがヒットすることなく、1976年に亡くなったという。
 曲の方は、シュプリームスの曲としてはまあそこそこといったところで、ちょっとおっとりした感じだが、モータウンサウンドというか黒人ポップスというか、ウキウキ感があって悪くはない。
 
 大ヒットだったかどうか忘れてしまったが、手元にあるということは気に入って買ったのだと思われる1枚。

PROCOL HARUM 「青い影」

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#533 1967年のEP盤。
 
 「プロコル・ハルム」というのはコンテストで優勝した猫の名前で、いい声で鳴くという意味と毛並みがいいという意味があるのだそうだ。
 ジャケットの解説によるとバッハの教会音楽を取り入れたR&Bで、イギリスでは5月27日の一日だけで87,000枚が売れたという大ヒット曲。
 R&Bだと言われるとちょっと首をかしげたくなって、あえて言えばブルースの方に近いのではないかと思う。
 まあジャンル分けには意味がないのでどうでも良いが、バックに流れるオルガンは確かにバロック音楽的で、そこにシンバルを多用したドラムとエリック・バートンを思わせるようなボーカルがかぶさってくる。
 それまでのロックでこれほどオルガンを効果的に使った曲はなかったことと、いわばバロック音楽的な白さとR&Bまたはブルース的な黒さが絶妙にからまって不思議な味わいを出していることによって支持されたのだと思う。
 オルガンのメロディー自体も美しいので、この曲に触発されてオルガンを使った曲がいくつも作られることになり、日本ではハプニングス・フォーの「あなたが欲しい」という曲がヒットした。
 そのあたりはビートルズの「Let It Be」のヒットの後にピアノを使った曲が多くなったこととよく似ている。
 
 このグループはこの曲だけで終わってしまったと長い間誤解していたのだが、調べてみたらその後も新しい試みを重ねながら70年代後半まで活動しそれなりの評価も受けていたらしい。
 77年に解散し、91年に再結成されて現在も活動しているとのこと。

JEFFERSON AIRPLANE 「あなただけを」

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#532 1967年のEP盤。
 
 結成は65年ということで、初めはフォーク・ロック系の曲をやっていたらしい。
 何度もメンバーの入れ替わりがあり、名前もジェファーソン・エアプレインからジェファーソン・スターシップへ、さらにスターシップへと変わって行ったバンドだ。
 だが#531 SCOTT McKENZIE「花のサンフランシスコ」で書いたとおり、サイケデリック・ミュージックというものが発生して来た時代にあって、そのジャンルの中では草分け的な存在であり、かつトップの人気を持っていた。
 #17 BIG BROTHER & THE HOLDING COMPANY 「CHEAP THRILLS」などとも共通するエコーを使ったギターがいかにもで、グレイス・スリックという女性のわずかにオリエンタルな不思議さのあるボーカルも効いている。
 このあとに発売された「WHITE RABBIT」では更に幻覚的な曲調になって、歌詞にも「マッシュルーム」という単語が聞き取れたりしている。
 マッシュルームというのは一種の毒キノコ(日本で言えばワライタケのようなもの)のことで、LSDの原料だ。
 それで思い出したが、当時はバナナの皮をむいた後に残る筋状の部分にも幻覚作用があると言われたことがあり、私も早速試してみたが全く効果がなかった。
 
 好奇心の強い年頃というのは何でもやってみたいもので、小学校高学年か中学生の頃、手回し式の鉛筆削りにたまった削りかすを紙で巻いて煙草のように吸ってみたことがあるが、あれはいただけなかった。
 ひとことで言うと濃縮された焚き火の煙を吸い込んだようなもので、思い切りむせた上にひどくめまいがした。

SCOTT McKENZIE「花のサンフランシスコ」

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#531 1967年のEP盤。
 
 「サンフランシスコに行くなら髪に花を飾りましょう そこでは優しい人達に出会うでしょう」という歌だ。
 第3次中東戦争が起こり、ヴェトナムではアメリカ軍がダイオキシンを使った「枯葉作戦」を行った年で、戦争に反対し既成の価値観を捨てて自然に回帰しようといういわゆるヒッピー・ムーブメントが大きく広がり始めた頃、サンフランシスコはヒッピーのメッカだった。
 ヒッピーは別名フラワーチルドレンとも呼ばれ、本当に髪に花を飾ったりしていた。
 デモの鎮圧に出動した軍隊の銃口に花を挿すヒッピーの姿を当時のニュース映像で見た記憶がある。
 キリスト教的なものから離れ東洋的な思想や仏教的な瞑想、ヨガなどによって悟りとか魂の平安を求めようとする活動が活発になり、そこから派生してマリファナ・LSDなどの薬物がもてはやされ、その体験を音楽化したサイケデリック・ミュージックなども発生した。
 この曲はサイケデリック・ミュージックとはまったく異なってひたすら爽やかで穏やかであり、まあヒッピーの良心というかまじめな部分というか、愛と平和と楽観主義に彩られている。
 なんだか知らないけどサンフランシスコに行ってヒッピーになったら、サラリーマンになって働かなくても幸せに暮らしていけるんじゃないか、などと馬鹿な気分にさせられた曲だ。
 
 日本では、アングラ、フーテン族 、シンナー遊びなどという言葉に矮小化されて、ファッションだけを真似たヒッピー気取りの連中が新宿あたりにたむろしていたっけ。

MARY WELLS 「MY GUY」

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#530 1964年のEP盤。
 
 「アタシのカレよりイイ男なんていないわ 何をしたってカレにはかなわないから、誰もアタシの気を引くことなんてできないわ」
 みたいな歌詞のようだ。
 スモーキー・ロビンソンが作った曲だが、リズムアンドブルースとかソウルとかよりもポップスに近く、ゆったり目のリズムながらやはり独特のノリがあって気持ちがよい。
 バックコーラスのつけ方には、後のシュプリームスなどにつながるような部分もあるように思える。
 ビートルズが一世を風靡していたこの年のビルボードで、5月16日にNo1になっている。
 モータウンの女性歌手としては最初にブレイクした人で、このとき24歳。
 少しハスキーな柔らかい声で、セクシーとまでは言えないが「ものわかりのよい」お姉さんといった感じで頼めばキスぐらいはさせて貰えそうな気がする。
 この曲以前にも何曲かトップテン入りするヒット曲を出していて相当な人気があったらしいが、この後レコード会社を移籍し、その後はヒット曲に恵まれなかったらしい。
 この頃から黒人音楽がトップヒットになることが珍しくなくなってきたのではないかと思う。
 
 同じモータウンのテンプテーションズのヒット曲「マイ・ガール」は、この曲へのアンサー・ソングなんだそうだ。

ザ・サベージ 「いつまでもいつまでも」

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#529 1966年のEP盤。
 
 前回聴いた#528 「若者たち」とともに、この年のヒット曲のひとつ。
 全員がストライプのボタンダウンシャツというあたりがこの頃のファッションを表している。
 アイビールックで決めた大学生がフォークソングを歌うというパターンはこの頃から#461 「カレッジ・ポップス・ベスト」などへつながる流れだ。
 リードボーカルは赤いカーディガンを着た若き日の寺尾聰だが、なんとまあ若いこと。
 歌手や俳優として今ではすっかり渋くなった寺尾聰を知っている人はまだ大勢いるだろうが、彼が宇野重吉の長男だということなどほとんどの人が忘れているのではないだろうか。どうでも良いことだが。
 曲の方はというと、ジャケットによるとフォーク流行歌(ポップスとルビがふってある)なんだそうだ。
 まあそのとおりと言っても良いと思う。
 実はこのバンドはエレキギターを使っており、その点だけ見ればエレキバンド(グループサウンズという言葉はまだなかったはずだ)ということになるのだが、この曲の清々しさやゆったりしたリズムはフォークソングに近く、先ほどの言い方を借りればフォーク・ポップスとかエレキ・フォークとかいうことになりそうだ。
 
 15歳になる頃だった私もレコードに合わせて愛唱していたっけ。

ブロードサイド・フォー 「若者たち」

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#528 1966年のEP盤。

 時代としてはまだ一所懸命頑張れば明日は開けた頃で、フジテレビもまた一所懸命だったこの年、「若者たち」というドラマが人気だった。
 若き日の田中邦衛が長男役で出演している。
 とても大雑把に言うと、両親を亡くした5人きょうだいが力を合わせて生活しその中で成長していくというドラマだったはずだが、今思うと60年安保を経験した若者達と高度経済成長期の日本の「気分」が一面ながらよく表れていたようだ。
 ドラマに登場するきょうだいは、低学歴で社会に出て苦労しながら下のきょうだいを支える長男次男と、アルバイトをしながら大学で勉強するやや左翼的な三男と、長女はどういう設定だったか記憶していないが、四男はまだ高校生のはずで、つまり、戦後20年余り、無一物から必死に生活を築いてきた世代とその恩恵を受けて進学が可能になった世代ということになるのではないかと思う。
 そのドラマの主題歌であり、この年のヒット曲のひとつだったのがこの曲。
 歌っているブロードサイド・フォーというフォーク・バンドはごらんのとおりアイビールックで、ええとこのボンボンに見える。
 多分有名私立大学の学生達が結成したバンドなのではないかと思う。
 ジャケット写真の一番右側で腕を組んでいる黒沢久雄は世界のクロサワの息子だ。
 ドラマに出てくるきょうだいとは住む世界が違うのは皮肉だが、それでも若者はそれぞれの境遇の中で「また 歩き始める」という点だけは共通していたのかもしれない。
 
 当時私は中学生でまだ何もわからなかったが、そのような「気分」だけは感じていたように記憶している。

人夢可酒

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 人夢可酒と書いて「ひとむかし」と読むのだそうだ。
 
 まずはグラスに鼻をつけ香りを確かめる。
 ブランデーほど強くはないが蒸留酒に共通するあの芳醇な香りだ。
 この時点ですでに良い酒であることがわかる。
 昔ちょっとパイプ煙草をやっていたことがあるのだが、この酒で煙草に香りをつけたら旨いだろうと思う。
 
 期待を持って口をつけると最初はやはり40度のアルコールが舌を刺激するが、味わいはけして固いものではなく、むしろわずかに甘さのような感覚がある。
 口に含んだまま最初は舌先で撫でて、少しずつ舌にのせ、次に舌の両脇に広げていき、それから少しずつ奥に進めてやると、抵抗なくぬるりと喉を通っていく。
 二口目からは、後味にその育ちの良さを感じさせるようなまろやかさがあり、ふむふむと一人うなずく。
 ロックにしたりお湯で割ったりすればまた別な姿を見せてくれそうな酒だが、割ってしまうのは勿体ない。
 
 先月、誕生日だということで子供達が贈ってくれた3本の焼酎の、最初に封を切ったのがこの酒なのだが、大切に飲みたい逸品だと思う。

マイク真木「バラが咲いた」

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#527 1966年のEP盤。
 
 60年代前半からフォークソングを歌い始めたというから、まあ日本のフォークソングの草分けの一人と言って良いだろう。
 初めてフォークソングのバンドを結成したのは1963年だそうで、調べてみたらその年のヒット曲は舟木一夫の「高校三年生」とか三波春夫の「東京五輪音頭」とかだ。
 当時はフォークソングという言葉が一般には知られていなかった、というかフォークソングというジャンル自体が日本歌謡界には存在していなかった。
 それで66年のヒット曲を調べてみるとザ・サベージの「いつまでもいつまでも」、森山良子の「今日の日はさようなら」、ザ・ブロード・サイド・フォーの「若者たち」といった所謂フォークソングが登場していて、つまりこの頃からフォークソングというものが一般に知られていったのだと思う。
 キングストン・トリオとかブラザーズ・フォアとかピーター・ポールアンドマリーとかがラジオからも頻繁に流れてくるようになり、「おお、なんかイイぞ」と青二才どもは思ったのだ。
 フォークソングとは言っても、ご覧の通りのアイビーファッションで、しかも作詞作曲は浜口庫之助ということなので、今で言うフォークソングとは落差がある。
 それでも当時としては「若者の若者による若者のための」音楽みたいな印象があって、お金持ちの子供達はギターを買うために楽器屋へ走ったのだろう。
 
 今聴いてみると、なんと他愛もない曲だろうとも思うし、時代そのものも今に比べると他愛なかったのだとも思う。

「白虎の雪」だった男

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 昔「白虎の雪」を名乗っていた男は今会津で農家をしている。
 
 会津には身不知(みしらず)柿という特産の柿があって、今年もそれを送ってくれた。
 台風で痛めつけられたので見た目が悪いと言っていたが、大ぶりでずっしりと重量感のある柿だ。
 箱の中には柿と一緒に「放射能(核種)検査報告書」なる書類が入っていた。
 自分が依頼したわけではなくて知り合いが検査に出してくれたもののようだが、要するに放射性セシウムは不検出という結果だ。
 
 のんきな口調の男で、この震災や原発による被害についても「俺んとこはだいじょぶなのよ」などと電話口で言う。
 東京にいたのは40年近く前で、その時と比べると少しイントネーションが会津弁ぽくなっていて、そのイントネーションで「俺んとこはだいじょぶなのよ」と言われると、心配させまいという心遣いかと思いつつ、そうなのかなあと少しほっとしもする。
 だがやはりこんな書類を同梱してくるということは、さすがに多少は風評を意識せざるを得ないのだろう。
 なんの、柿の一箱くらい食べたところでどうってことはない。
 なにしろ子供の頃は鼻クソも食べたし落としたあめ玉は舐めてきれいにしてから口に戻したしガムは噛んだ後ももったいなくて飲み込んでいたし、合成着色料やらチクロやらサッカリンやらも当たり前に使われていた。
 何よりも、毎日20本以上吸うタバコ以上に身体に悪い物などない。
 福島産であろうとどこ産であろうと、私はこんな書類などなくても何の不安感もなく食べてしまうのだが、彼は彼なりに気を遣ってくれたのだと思う。
 
 古い友人が、風評被害にも負けず来るべきTPPとやらにも負けず、まっとうな農家として当たり前にくらして行けることを願う。

「ミーナは歌う」

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#526 1965年のコンパクト盤。
 
 コンパクト盤というのはEP(ドーナツ盤)と同じサイズのレコードで、回転数を33回転にして裏表に2曲ずつ入れたもの。
 カンツォーネ・シリーズと書いてあるが、イタリアン・ポップスとカンツォーネがどう違うのか私には分からない。
 1曲目「砂にきえた涙」は、本人が日本語で歌ったこともあるが弘田三枝子が歌ったことによって日本でも大ヒットした。
 日本語の歌詞に限って言えば、失恋の思い出の品を浜辺の砂に埋めて泣くという、悲しみを内に込める歌で、まあ、今の若い女性にはありえないような内容だ。
 だが昭和40年の日本の青少年に対しては訴えるものがあり、海水浴の帰りぎわ、波打ち際の砂に指で好きな異性の名前を書いて、それを波が消していくのを見つめるなんてことをしたのは私だけではないだろう(と思いたい。そうでなければ恥ずかしくていたたまれなくなる)。
 ミーナという人は「砂にきえた涙」の他に「月影のナポリ」という曲もヒットさせていて、日本では森山加代子が歌っていた。
 当時は「チンタディ ラディルンナ」という歌い出しが何のことかずっと分からなかったのだが、今になってイタリア語だったことにやっと気づいた。
 
 3曲目「ナポリでチャオ!」はビートルズの「プリーズ・プリーズ・ミー」の影響を強く感じさせる曲で、ちょっと苦笑いしたくなる。

奥村チヨ 「ごめんネ…ジロー」

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#525 1965年のEP盤。

 「ごめんネ…ジロー」というタイトルからしてすでに切ない。
 必死で告白してきた少年を無碍に拒否してしまった少女が、実は少年のことが好きだったことに気づき、「ごめんネ」と謝る歌だ。
 恋知り染めし頃、気になる異性の前に立つとわざと素っ気ない振りをしたり、逆にことさら目立つように振る舞ってみたり、幼いなりにいろいろと相手の気を引こうとしたことがあったようななかったような。
 だがそれはほとんど効果のないことで、いつか自分に振り返ってくれないものかと思いつつ、遂に報われないまま片思いは終わるのだ。
 そんなぼんやりとした記憶が私にも残っていて、同年代の、小悪魔的なこの少女のこの歌に、多分当時はかなりイカレたはずだ。
 曲調も、アメリカン・ポップスの、とりわけティーンネイジ・ラブバラード系の臭いを感じさせるもので、矛盾した言い方だがジャパンオリジナルのアメリカン・ポップスといった趣があった。
 和製シルヴィ・バルタンという言われ方もした奥村チヨだったが、ポップスの臭いのするのはこの曲だけで、「恋泥棒」あたりまでは良かったもののその後は歌謡曲的な曲ばかりになり、「恋の奴隷」などというヤクザに貢ぐホステスのような曲を歌うに至っては、もう少年の心を震わせる存在ではなくなってしまった。
 この後も歌謡曲歌手としていくつかの大ヒットを出し、やがて作曲家と結婚、ますます演歌方面に近づいていったあたりで私の視界には入らなくなった。
 どうやら今でも歌っているらしい。

THE TORNADOS「テルスター」

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#524 1963年のEP盤。
 
 第2次大戦に勝ったソ連とアメリカはドイツ人科学者達を奪い合うようにして自国へ送致または招聘し、ドイツ軍が持っていたV1ジェットミサイルやMe262ジェット戦闘機などのジェットエンジン技術やV2ミサイルのロケット推進技術などを研究・吸収・発展させていった。
 1957年、ソ連の手によって打ち上げられた人類初の人工衛星スプートニクは世界を驚かせたが、V2ロケットの技術が基本にあったという話だ。
 これによってプライドを大きく傷つけられたアメリカは、1958年にエクスプローラーという人工衛星を打ち上げるのだが、世界に与えた衝撃の大きさで言うとスプートニクにはかなわなかったように記憶している。
 その後も宇宙開発では常にソ連がアメリカをリードし続ける時代が続き、それが逆転するのは多分1969年にアポロが有人月面着陸に成功した時だろう。
 といった流れの中で1962年にアメリカが打ち上げたのがテルスターという通信衛星で、ヨーロッパとアメリカの間で同時テレビ放送を実現させた。
 これは欧米人達には非常に気持ちの良い出来事だったようで、この曲もそんな気分を表している。
 ロケットがグイグイと空を昇っていくような曲で、「夢と希望と愛と勇気」なぁんて雰囲気なのだ。
 基本はエレキ・バンドのようだが、この曲でメインに使われているのはオルガンで、音程が微妙にフラットするような不安定さがあるのだが、それがまたいかにも宇宙的な感じで面白い効果になっている。
 
 ジャケットにはバンド名が「ザ・トルナドース」と日本語で書いてあるが、これはちょっといただけない。
 実はもう1枚同じバンドのレコードを持っているのだが、そちらには「ザ・トーネイドース」と書いてある。ちなみにイギリスのバンドである。

THE SOUNDS「さすらいのギター」

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#523 1963年のEP盤。
 
 これもヴェンチャーズがらみで思い出した1枚。
 フィンランドのバンドなのだが、多分一発屋だったのだろう。これ以外にヒット曲はなかったと思う。
 ギター3本とドラムが揃えばコードはみっつかよっつ弾ければなんとかなってしまう時代だったのだろうから、多分世界のあちこちでエレキバンドが大発生していたのだ。
 原題は「Mandschurian Beat」。レコードジャケットの解説によるとMandschurianとは満州族・満州人という意味らしい。
 だが英語で満州は確かManchuだったと思うので、ならば満州族はManchurianじゃないんだろうか・・・などと思うのだがまあどうでも良いことだ。
 だが「さすらいのギター」という邦題はこの曲の曲調をなかなかよく表している。
 「満州族のビート」などという邦題にされなかったことは多いに喜ぶべきだろう。
 たとえばポーリュシカ・ポーレにも共通するような、大瀧詠一が好きそうなメロディーで、東欧的哀愁というか北欧的寂寥感というか冷たい風に吹かれているような気分になる曲であり、あったかい国の人にはちょっと作れないんじゃないかと思う。
 
 現在は同じ名前のロックバンドがスウェーデンで活躍中で、こちらはエロ可愛い女性ボーカルが頑張っているようだが、どんなバンドなのか私は聴いたことがない。

THE CHANTAYS 「パイプライン」

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#522 1963年のEP盤。

 ヴェンチャーズを聴いた後、そういえばと思って引っ張り出してきた1枚。
 実はテケテケテケテケはヴェンチャーズよりもこのバンドの方が先だったのかも知れない。
 とにかく、ヴェンチャーズのオリジナルと思われがちなこの曲をヒットさせたのは何やら垢抜けない感じのこのバンドだったことだけは間違いない。
 パイプラインというのはこの場合サーフィン用語で、大波の頂上が滝のように崩れ落ちる瞬間に出来るトンネル状の形のこと。
 そこをくぐり抜けるようにボードを滑らすのがサーフィンの醍醐味のひとつらしい。
 そういうネーミングの曲だけあって当時としてはスピード感のある曲ということだったのだろうが、今聴くとどうしても古色蒼然たる印象だ。
 もっとも、サイドギターのパリパリとはじけるような音色はなかなか面白く、当時のエレキ少年達はどうやってこの音を出すのか多分相当研究したことだろうと思う。
 
 YouTubeにアップされた映像の振り付けがなんとも言えない。必見!

THE VENTURE 「10番街の殺人」

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#521 1965年のEP盤。
 
 #107「WALK, DON'T RUN '64」でも書いたが、日本のエレキブームに多大な影響を与えたグループであることは間違いなく、当時はものすごいブームで「勝ち抜きエレキ合戦」などという「目指せベンチャーズ」的なテレビ番組があったりもしたのだ。
 実はその人気は日本だけではなく、アメリカでもビルボードの人気投票「もっとも愛された楽器演奏グループ」部門で、1961年から連続3年間第3位だったのだそうだ。
 じゃあ1位と2位はどのグループだったんだという話になるわけだが、残念ながらそれは調べてみないとわからない。
 原題は「Slaughter On 10th Avenue」で、Slaughterは殺人というより虐殺とか殺戮、屠殺といった意味のようだ。
 1936年のブロードウェイ・ミュージカルで使われたのが最初らしく、つまりオリジナル曲ではない。
 原曲はこの曲よりずっとゆったりしたテンポなのだが、ベンチャーズのアレンジは当時としては画期的で、スピード感のある仕上がりになっている。
 ギターが一瞬鳴った後にドラムが入るイントロがなかなか良くて、この部分だけで人を惹きつけてしまう。
 ギターの音色は勿論だがとオルガンとのバランスも良いし特にドラムのリズムパターンは斬新で、多分演奏なしでドラムだけを聴いてもこの曲だと分かる人は多かったと思う。
 
 関係ないがドラムのメル・テイラーはフランケンシュタインっぽい顔をしていて印象的だった。

DONNA LYNN 「夢みるビートルズ」

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#520 1964年のEP盤。
 
 ある朝目覚めたら毒虫になっていたのはザムザ氏だが、この少女は夢の中でカブトムシになってしまった・・・。
 のではなくて、ビートルズと一緒にステージで歌う夢を見たという曲だ。
 62年にデビューしたビートルズはこの頃凄まじい人気で、いっときは発売する曲すべてがヒットチャートの1位、しかも数週間連続というのが当たり前だった。
 それはまだアイドル的な人気であって、先駆者としての評価を受ける以前にカッコいいロックバンドとして圧倒的にもてはやされていた。
 そんなビートルズにあやかって、ローティーンの女の子がミーハーな夢を歌っているわけで、曲としてはモロにアメリカンポップスなのだ。
 その脳天気な明るさとリズム感が心地よく、ビートルズをダシに使っていることなど気にせずにアハハと聴いていれば良い。
 
 ドナ・リンはこのとき13歳、ということは考えてみたら私と同い年だ。
  子供の頃からミュージカルなどに出演し、「奇跡の人」でヘレン・ケラーを演じて注目されたりしていたらしい。

THE TOYS「ラバーズ・コンチェルト」

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#519 1966年のEP盤。
 
 原曲はその名も高きバッハのメヌエットト長調BWVAnh.114。
 ピアノを習い始めて2年目くらいの5〜6歳の児童が、発表会で見事に弾きこなす曲としても知られている(ような気がするのだが実際のところは不明だ)。
 だが実はバッハではなくて、ペツォールトというドイツの音楽家の作品だという説が近年は有力になっているようだ。
 3拍子の原曲を4拍子のポップスに編曲してあり、原曲の良さをうまく取り入れて破綻なく仕上がっている。
 シュプリームスやサラ・ボーンも歌っているが、このレコードがヒットしたことでいろんなミュージシャンに歌われるようになったのだと思う。
 この頃の女性コーラスグループというのは、知らずに聴くとみんなシュプリームスに聞こえてしまう部分があるのだが、このグループもコーラスの付け方などはいかにも当時風で、それ故の安心感がある。
 B面の「恋のアタック」もアメリカでは少しヒットしたらしく、こっちはチャイコフスキーの「くるみ割り人形」からの曲をアレンジした物だそうだが、イントロ部分に聞き覚えのあるメロディーがあることしか気がつかなかった。
 プロデューサーがクラシック好きだったんだろうか。
 
 どうでもいいことだが、写真の一番左の女性は伊東ゆかりにちょっと似ている。

SHANGRI-LAS「家へは帰れない」

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#518 1965年のEP盤。
 
 意訳になってしまうが、多分こんな内容の曲だと思う。
 
  「心から愛してくれる母さんがいて、私幸せだったわ。
  だけど恋に落ちてしまったの。
  若すぎるって言われたけど、気持ちは抑えられなかった。
  荷物をまとめて家を出ようとしたときも、母さん必死に引き留めてくれた。
  それを振り切って飛び出して・・・、気がつけば彼は身体を求めるだけの男だったし、もう気持ちも冷めてしまった。
  こんなことになってしまったけど、もう二度と家へは帰れない。
  ママ!私はもう家へは帰れない。
  あなたがもし私みたいな立場だったとしても、私みたいなことをしちゃだめよ。
  あなたの母さんを悲しませてはだめ。」
 
 中学から高校にかけての思春期の頃には私にも家出願望があって、家からも学校からも自由になってどこか知らないところへ飛んで行ってしまいたいと思った記憶がある。
 詞の意味など解らなかった当時の私にも、家出娘にだって家出娘なりの悲しみや淋しさがあるということが何となく伝わってきて、切ない気持ちで聴いていた曲だ。
 
 私の場合、大学進学によって疑似家出状態になったので家出の必要はなくなったし、帰省するとたらふくの飯がただで食えることに気づき、それ以来家出願望は消えてしまった。

「DELMARK BLUES MASTERPIECE SPECIAL-ALBUM」

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#517 借り物の1枚。1970年代に作られたらしいレコード。
 ただし「非売品」と書いてあるので、発売されたのかどうかは分からない。
 
 #513 「SWEET HOME CHICAGO」同様に日暮泰文という人が解説を書いているのだが、デルマーク・レコードの傑作集ということで、この人がプロデュースして日本のトリオレコードに作らせたもののようだ。
 ブルースをはじめ黒人音楽に対する造詣と愛情が相当に深い人のようで、音楽評論家のスタンスを超えてレコードをプロデュースしてしまうというのも凄いことなのだが、調べてみたら更にはブルース系のレコード会社まで作ってしまった人だというから、半端なのめり込み方ではなかったのだろう。
 シカゴ・ブルースを集めてあるとのことで、多くがアコースティックで、中には楽器はギター1本だけとういう曲もある。
 乏しい知識しかないので間違っているかもしれないが、「SWEET HOME CHICAGO」よりも一世代前の人達がやっているのかもしれない。
 ちょっと古くさいけれどその分朴訥とした感じがあって、このレコードの方が酒に合うような気がする。
 それにしても、セブンスだかナインスだかサーティーンスだか知らないが、所謂ブルースコードの、聴きようによっては濁った不協和音がどうしてこんなに気持ち良いんだろう。
 ロックミュージシャン達が接近してデフォルメしていったことによって(特に日本では)ブルースの認知度が高まったのだと私は思うのだが、もしもロックという経験を持たない状態でいきなりブルースが入ってきたとしたら、多分この気持ちよさは理解されず受け入れられなかったんじゃないだろうか。
 アフロ・アメリカンのルーツミュージックと他の移民達の音楽の融合とかなんとか分析することもできるんだろうが、これはやっぱりブルースコードの持つ魔力なのだと言いたくなる。

「憂歌団」

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#516 借り物の1枚。1975年のレコード。
 
 衝撃のデビューアルバム。
 木村秀勝の喉をふるわすナチュラルバイブレーション、内田勘太郎のガラス瓶の首を指にはめた文字どおりのボトルネック、それらの物凄さには圧倒されたし、それ以上に、これほどのブルース心を持ったバンドが出てきたことに驚いた記憶がある。
 B面1曲目「おそうじオバチャン」がヒットして、そのために損をしたというか、コミックバンドみたいに思われたこともあったようだ。
 まあ木村秀勝のMCだけを聞いたら、確かにそんなアホな部分もあるのだが、実は日本で最も早くブルースを自分のものにしたバンドのひとつと言ってかまわないだろう。
 行ったことがないのでよく知らないが、どうも大阪の下町にはブルース的なメンタリティーを持った人達が棲息しているのではないか。
 そしてこのバンドは、元々そういった性向を持っていた人達が、ブルースという泥のような音楽に出会い、その泥にどっぷりと耽溺したところから出発しているのではないか。
 普通はそこから先に日本人の限界が現れてしまうのだが、木村秀勝のボーカルと内田勘太郎のギターはそれまでの常識を遙かに超えており、まるでネイティブなブルースマンのようだ。
 特にB面3曲目「カインド・ハーテッド・ウーマン」などを聴くとその思いが強くなる。
 
 久しぶりに聴いたが、日本のブルースの名盤と言える1枚だと思う。
プロフィール

プカプカ

Author:プカプカ
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